2011年5月6日(金) 、3D‐GAN さんを見学した後、
友人と合流し「絵師100人展」行ってきました。
(撮影不可だったので、挿絵がありません。
ぜひ↑のリンクで作品をご覧になりながら読んでください。)
あまり、絵師さんについて興味のアンテナが高くないのですが、
乙山法純さんの企画「いらすとれ〜た〜ず」や、ワンフェスレポートでも取り上げた
鶴の館・八音式さんとProject.C.K.のコラボレーション作品、
ボーカロイドにおけるピアプロ絵師の様々な立体化作品など、
現在においてこれまで以上に絵師の活動と原型師の活動はきっても切り離せない関係なので、
「これはいかなっ!!」と思い行くことにしました。
ちなみに、昼飯から合流した友人はめちゃめちゃ詳しい奴なので、
アドバイザーとして協力してもらいました。基本、ぼやいてましたw
画像
色々と感想を述べる中で、当日会場で販売されていた
『絵師100人展‐展覧会図録』という本にて
「ごあいさつ(産経新聞社)」
「「絵師100人展」によせて(服部道知)」
「図版(絵師のコメントつき)」
「作家掲載一覧」
「「平成美少女様式」について(山下裕二)」
「デジタル絵師の世界(出口弘)」
という構成で、解説や考察がなされているので
それを頼りにしながら進めていきたいと思います。
画家ではなく絵師という画壇
まず、ぱっと様々な作品を見て思ったのが
「なんで、みんな同じ絵を描くのだろう?」という感想である。
これが率直な私の感想である。
「ごあいさつ」の中で、
「本展は従来のアートとは異質ながらも、江戸時代の庶民に親しまれた
「浮世絵」と同じように現代に生きる人々の心をとらえ、世界的にも評価されている
「現代の絵師」100名以上が、統一テーマのもとで作品を描く展覧会です。」
「私たちは、本展に展示された絵師の作品を見つめることで、
世界に注目されている「クール・ジャパン」の魅力を改めて知ることができると考えています。」
と、あり
服部道知によって「本展覧会を開くにあたり、「日本」というテーマを決定した。」とあるので、
あぁ、日本がテーマだからか〜。と一応に納得するのであるが、
それでも、「少女」「着物」「セーラー服」「メイド」「扇子」「和傘」「刀」「鳥居」「桜」「梅」「月」「富士山」…
ほとんどの作品にいづれかのモチーフが描かれているのである。
どれも「オタクっぽい記号」ということなんだそうだが、
絵師の描く絵は、少女でなければいけないのか?
もっと言えば、風景画や抽象画ではいけないのか?
そんなことを私は考えた。
山下裕二は寄稿文の冒頭で
「ここに展示されている一群の作品は、きわめて明確に定義することができる一定の
「様式」(これは古くさい、アカデミックな美術史用語であるが)に基づいている。
それを仮に「平成美少女様式」と名付けよう。」
とし、これらの作品群を一つの「流派」として捉えている。
またそのような様式が生まれた要因に
「目と手だけによる模写、トレーシングペーパーなどによる模写、写真による複写、コピー機の普及、
デジタル画像流通の浸透という諸段階を経て、巨大な、しかもある意味、不気味な無名性を伴う
「流派」ともいうべきものが、誰かが主導、意図したわけでもなく形成されたわけだ。」
と、コピペの技術的進化が根底にあるために、強固な様式が生まれているのだと分析している。
(本当にそんな単純な理由だろうか?私はちょっと山下氏の意見には同意しかねる。)
私の感想を述べよう。はっきり言って、「絵師100人展」は面白くなかった。
それは、絵師の技量が貧弱だったからではない。
絵師それぞれの持つ「人気の理由」を主催者がよく理解し、
表現させようとしなかったからである。
例えば、私でも知ってる絵師にみさくらなんこつという絵師がいる。
今回の「絵師100人展」でも作品を掲載していた。
図録のコメントにはこう書かれている。
「渓流のニンジャガール みさくらなんこつです、新人です。カリスマでごめんなさい。
今回描いたのは忍者な女子です、水の上でもスイスイです★
「お色気忍法は使わないのか」って聞かれたら、自粛しないとこの絵自体が
ペロンと消えちゃうって話よ、アーハー?
胸の赤いタトゥーは「人間愛」って描いてあります。
説明しなくても伝わってるよね。人間愛!!」
と、書いてある。(なんだ…この日本語w)
日本語どうのはともかく、彼の絵と言えば両性有具(ふたなり)とエロである。
エロで成り上がった絵師なのに、エロは描くなというのである。
マティスの描いた「ダンス」(全裸でみんなが輪になって踊ってる絵)が名画で、
両性有具の人間が精液をぶちまけてる絵は有害扱いである。
絵師=エロだろ!と、言うわけではないが、
萌えだけではもう説明がつかない絵師の個性を今回の展覧会は殺してしまっているのが非常に残念だった。
見に来た一般客がドンびきするような、様々な角度からの「日本」を見せてこそ
「絵師100人展」が世界に衝撃を与える展覧会になったのではないかと思う。
ちなみに、いとうのいぢも今回の展覧会出展作品へのコメントとして、
「月華 月と美しい人、というイメージでこの絵を描きました。
太陽より月の方に「和」を感じるのは私だけでしょうか。
人物は女とも男とも判別がつかない、只、麗しい人。
秋ではなく春の夜のつもりです。
空気は冷たいけど、あの何ともいえない春の夜の匂いを感じて頂けると嬉しいです。」
と、いうことで、肖像に対して、性別的な境界を曖昧にしている。
表現の仕方は様々にあっても、絵師にとって「性」とは、非常に重要なテーマなのだ。
細かなところで言えば節電状態なのは重々承知ではあるものの、
デジタルで描いた作品ならば印刷という安っぽい展示方法にするのではなく、
高品質な液晶パネルに写して展示して欲しいと思った。
電気の力で輝くキャンバスがあってこそ、絵師の絵は光るのではないかと思った。
このような、私満ち足りない気持ちに対して、出口弘の寄稿文は心の拠り所であった。
先生の目線は本当に「現代の絵師」というものの位置づけや存在意義を捉えている。
全てを引用したいところだが、一部紹介するに留める。
「結局サブカルというものは、権威付けられた中心の周縁にある文化或いは
作品のことを指し示すのだと考えると合点が行く。その意味ではデジタルな絵師の作品は
確かに、漫画やアニメやラノベがそうであるように、権威の周縁にある。
だが漫画がそうであるように、今日の絵物語は我々の生活世界のありとあらゆる事柄を、
その上の空想・妄想も含め対象とする。信じられない数の絵物語が、プロ、アマを問わず
あらゆる世代、あらゆるジャンルにわたり日本では毎週のように創り出され、受け入れられ、
それがまた二次創作を含めて新たな物語を産み出していく。
…中略(主にコミケの紹介「それこそが」に係る)…
それこそが、現代の日本の中心にある創作空間であり、権威の中心にある筈の文芸やアートは、
壁際同人のサークルにも劣る熱狂しか醸し出すことのできていないという確たるリアルがそこにはある。」
「私は大石竜子(P.108)に「赫炎のインガノック」で出会ったが、
実はそれが既に出会っていた漫画家の大石竜子とはしばらくは気づかなかった。
その「赫炎のインガノック」には、コミケの赫炎のインガノック同人本で出会った。
いとうのいぢ(P.26)は「ハルヒ」で、ヤス(P.194)は「とらドラ!」で、
文倉十(P.16)とは「狼と香辛料」で出会った。さらに青樹うめ(P.90)には、「ひだまりスケッチ」で、
…中略(この先生すごいオタクだ)…
そう絵師は世界に遍在していて、我々との幸福な出会いの時をまちかまえているのだ。
出会いの場としての絵物語も世界に遍在している。
エロゲー、漫画、アニメ、ホームページ、様々な場所でデジタル絵師の作品は我々を待ち構えている。
むろん絵師の宿命で、絵師の描く作品はその対象たる物語で修飾されている。
私にとって文倉十は、ホロと切り離せないし、大石竜子もアティと切り離せない。
だが絵師はそれを許してくれると思う。
その物語を視覚化することで、いきいきとした世界としての物語が我々の前に立ち現れることを
絵師の力が可能としているからだ。
物語から先に絵師の作品を語るということは、絵師にとってはちょっぴり不幸なことかもしれないけど、
多分それを上回る幸福なできごとでもあるだろう。」
一部でも、これくらい引用しないと満足できないくらい、先生の文章は気に入っているのだが、
日本の文化というものは、物語と共にあるという特異性がわかりやすく書いてある。
過去をみても、江戸時代の写楽などの浮世絵は歌舞伎という物語があって成り立つものであるし、
その歌舞伎も鎌倉時代や室町時代に起きた出来事を題材に演出されているものが少なくない。
言わば2次創作である。
西洋でも、聖書という物語を題材としたものが多いが、日本では純文学や紀行文など、
世俗的とも言える「喜怒哀楽」が物語となり舞台となり絵画となっている。
特に江戸時代の浮世絵と言われるものは歌舞伎役者・民衆の生活・旅の名所に
スポットが当てられているものがほとんどである。
続:ガレージキットはアートなのか?という記事で過去に、
「芸術のための芸術」とは何か?では、オタクの紡ぐ作品群とは何か?を考えたことがあるが、
出口先生の考察も合わせれば、改めて、
「私たち」の物語という単位にこそ日本の絵師は、居場所があるのだと言えよう。
つまり、絵師が絵師として展覧会用の絵を描くというのは
実は、絵師を語る上でのアプローチとして間違っていると言えるのではないだろうか。
無論、絵師という意味合いはそれこそ今回の展覧会などを経てこれからのさらに変化するものだとも思うが…。
「絵師100人展」という『展覧会』という制限された舞台装置の中で、
クールジャパンとは何かを伝えるのは、難しいのかもしれない…。
彼らは、日本のサブカルチャーという物語共同体において輝く存在だからだ。
『展覧会』というのは、作品や作家の創造性をダイレクトに伝える場である。あった。
だが、改めて21世紀の芸術を学ぶにあたり、これまで通りの『展覧会』で
本当に作品や作家の創造性が伝えられるのか私は問いたい。
新しい絵画。日本には古来からあった絵画。
絵画のルーツを知ること、日本の文化そのものを知ること。
「萌えー!」には濃厚な「日本」が確かに存在しているのである。
今回の「絵師100人展」はとても勉強になった。