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ガレージキットをテーマにツイッターじゃ文字数足りないことをあれこれ書く

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続:ガレージキットはアートなのか?

この文章は、昔、ウェブサイトで適当に書いた
ガレージキットはアートなのか?」を改めて考え、修正したものです。
参考にした文献などもありますが、基本、こっぱ恥ずかしいポエムのような
ものだと思って読んでください。…ブログ記事にしてはむっちゃんこ長いです。

アートに関しては本当にド素人な自分がアホ丸出しで書いた文章なので、
アートに詳しい方の、「やさ~しく教えてくれるようなコメント」歓迎です。
ガレージキットに詳しい方もお願い致します。
なお、この原稿ではかなり美少女フィギュア寄りにガレージキットを
扱ってしまっていることを事前にご了承ください。



はじめに

どうしてガレージキットが好きなのか?
理屈っぽい自分は、色々と考えてみる。
自分がオタクだから?キャラクターが好きだから?美少女だから?工作できるから?
原型師と仲良くなれるから?イベントの熱気が好きだから?

どれもそうだ!といえばその通りだと思う。
でも、自分の中で、どうしてももう一つ、ある想いが込み上げる。
どうして自分はガレージキットが好きなのか?
それは、ガレージキットがアートだからだ。
という想いだ。

しかし、多くの人がガレージキットにことを、アートではなく、クラフトだと言う。
アートとクラフト一体何が違うのだろうか?
どうしてガレージキットはアートとして評価されないのだろうか?
そもそも、アートとは何なのだろうか?
自分が初めてガレージキットを見て感じた想いと、
皆がガレージキットをどうのように見ているのか、
そのギャップが何かを知りたくて、アートについて、ガレージキットについて、
下手なりに、調べて見ることにした。

1■ アートとは何か?

1.純粋芸術

ガレージキットがアートなのかを考えるためには、
現代の社会において、アートとは一体どのようなものなのかを
知っておかなければならない。…と、思った。

例えば、ダ・ヴィンチ、ゴッホ、ピカソと言えば、門外漢の自分でも知るアートの巨匠である。
アートを欲した者たち、巨匠達の美のテーマは、時代と共に移り変わる。

ダ・ヴィンチの時代には、教会や王侯、豪商など、権力や富を得た者が、
文化振興への貢献により、名声を得るべくアートを求めた。
主に、聖書や神々にまつわるシーンが題材となった。
信仰心の証明が清く時代を生きるために必要不可欠だったからだ。
また、自らの力を誇示するような立派な肖像画も多く求められた。

ゴッホの時代には、アーティスト達は市民革命によってパトロンを失った。
公園でくつろぐ市民や、華やかな街、貧しさに喘ぐ農村、美しい風景など、多種多様ではあるが、
どれも顧客とモデル費用がかからない、売れる見込みのなく低予算で描ける題材が多かった。
多くの画家がその存在理由を失ったため、自分たちで自分たちの生活や風俗を表現するようになった。
現代アートに続く、「芸術のための芸術」が産声をあげた時代である。
また、当時、日本の大衆娯楽であった浮世絵の自由奔放な題材が、
西洋に新しいアートの在り方を示す模範となっていたのも有名なエピソードである。

ピカソの時代には、資本主義の成長によって出現した資産家が再びアートを支えた。
技術の発達によって、肖像画は写真に、聖書は印刷物にとって代わる中、
彼らは「芸術のための芸術」の発展を推奨することで、文化振興や社会的地位獲得に役立つと考えた。
アートも、抽象画という言葉が示すように、心情や社会的メッセージなど、
具象に囚われないアートが台頭するようになった。

また、市民革命や侵略戦争による没収品・戦利品は、国家規模で管理され、研究され、市民に開放された。
美術館の誕生であり、アートの殿堂となった。

このように、アートは時代によって存在理由が異なる。
アートを収集する者も、中世や近代絵画など時代を超えた傑作を求めるコレクターと、
ギャラリーでこれから歴史に名を残す可能性のある作品を求め、
自らが評価者にならんとする現代アートコレクターとに大別できるが、
どちらのコレクターも、過去から現在に至る一筋の系譜を持ったアートを求めている。

これらアートの系譜に従って誕生した芸術を、『純粋芸術』と呼ぶ。

なお、この「アートの系譜」という考え方は、『村上隆の芸術実践論』(ニコニコ動画)を参考にしている。
曲解してるかもしれないので、氏自身がどのように説明したかは、実際に動画を探して見てみて欲しい。



2.応用芸術

『純粋芸術』という観点で考えるとガレージキットは、アートではない。
ガレージキットは、1981年に川口哲也氏による歯科用レジンの模型転用が起源とされている。
アートの系譜とは無関係な技術の転用から生まれた存在なのだ。

私たちの生活の中でもアート的な物は身の回りに溢れている。
衣類やアクセサリー、家具、食器、例をあげれば切りが無い。
大衆を対象に、職人が手がけて造るこれらの工芸品(クラフト)、その中でも、
極めて芸術的な意匠や技巧が施されたものを『応用芸術』と呼ぶ。

また、演劇や演奏会、ライブパフォーマンスによる芸術的活動は、その時、その場所に居合わせなければ
その芸術性を体験できないという時間的拘束を受けるため、『時間芸術』と呼ぶ。

意見が別れるところかもしれないが、『時間芸術』は『応用芸術』の一部であると、私は考える。
『時間芸術』は作品は世代を越えても表現者が時代によって変化していく。
また、優れた作品であれば国境も越えて広がっていく。
『純粋芸術』とは異なり、一つの作品・一つのアーティストという不変性を持たないからである。


3.大衆文化と芸術

さて、改めてガレージキットはアートなのだろうか?
アートと言えば、『純粋芸術』と『応用芸術』に大別されるが、
もう一つ、大衆が求める芸術というものがある。…と、思う!

例えば、映画、マンガ、小説、アニメ、テレビ、CDなどがあげられるだろうか。
娯楽産業とも言えるこれらの芸術は、映像技術、印刷技術、発信技術、蓄音技術など、
大量生産と大衆市場への流布の技術進化と共に発展した『純粋芸術』とも『応用芸術』とも異なる芸術である。
古く言えば、西洋で評価された日本の浮世絵も、印刷できるという点で庶民のための芸術だった。

『応用芸術』の中には、職人の手作業から工業化され、大量生産として経済性を重視した、
あくまで工芸品として発展したものも多くある。むしろ、現代社会ではそのようなものの方が
圧倒的に多いと言えるだろう。

大衆文化の芸術は、技術革新によってもたらされた大衆を顧客対象とした、低価格で購入できるアートである。

『純粋芸術』や『応用芸術』の善し悪しは、その作品を欲する、裕福なコレクターたちと、
彼らに作品を勧めた画商やキュレーターたちの評価で決まる。また、アーティストが造るものである。
『大衆の芸術』は、その作品を手に入れた大衆の評価や売上によって評価される。
こちらは、主に企業活動によって生み出されるものである。


4.アートとは何か?

アートには、発展の系譜がある。
『純粋芸術』にも『応用芸術』にも、『大衆芸術』にも、傑作があり、
アートの系譜がそれぞれ独自に存在している。
アートを理解する為には、その作品そのものを鑑賞するだけに留めず、
歴史的観点を踏まえて鑑賞しなければならないのだ。

そして、かつて浮世絵が西洋に衝撃を与えたように、文化・作品・知識を積み重ね、
独自にアートの系譜を、脈々とそして急速に育てている分野がある。
それが、日本の「オタクカルチャー」なのだ。

2■ 「オタクカルチャー」はアートなのか?

「村上隆はどうして日本人に嫌われるのか?」と、いう副題でも良かったのだが、
(ちなみに私は、彼のファン。毛嫌いする人の方が彼をよく知っている気もするけど…。)
日本人はオタクなものを、アートとして組み込まれることを嫌う。

例えば、「初音ミク」を外国人コレクターが見て、ただ「かわいい女の子」だと評価されて
終わることにオタクは納得ができないだろう。「おまえらに、俺達の世界の何がわかるんだ?!」
そういう反発があり、『純粋芸術』のエリートに対して、オタクは強い反感を抱く。

それは、どうしてだろうか。私が考えるに、オタクは、
自分たちが培って来た、「萌え」「ネコミミ」「ロリコン」「ツンデレ」「どじっ娘」「メイド」などなど、
あらゆるオタク的な価値観を大切に理解した上で作品なりキャラクターを観ているからだ。
(…自分のあげるボキャブラリーが貧相でゲンナリ…。)

1.あなたは「魔法少女まどか☆マギカ」が読めますか?(10話までのネタバレ要素あり)

例えば、現在放送されている人気アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」には、
「魔法」「少女」「契約」「変身」「必殺技」「セカイ系」「タイムドライブ」「ティータイム」など、
あらゆるアニメ作品にあったお約束的要素があり、それらのもつ意味を覆して行くことで
視聴者にこれまでにない新しい作品だという印象を与えている。
(…自分のあげるボキャブラリーがここも貧相でゲンナリ…。)

「普通の少女が魔法の力で変身して悪と闘う。」というのは、
「セーラームーン」や「プリキュア」などどちらも人気作品の持つ格子だろう。
そもそも、「変身して悪と戦う」という物語は、「仮面ライダー」や「ゴレンジャー」などの格子でもある。
また、「私たちが戦わなければ、世界が滅んでしまう…」という世界観は「新世紀エヴァンゲリオン」に
代表されるセカイ系の考え方でもある。時を幾度も遡るという要素も、「時をかける少女」的な発想だと思う。
…ドラえもんでも構わない。
(より詳しい作風や評価は、ウィキなどを参考にして頂いた方がいいかと思います。)

「魔法少女まどか☆マギカ」には、「オタクの常識」がふんだんに盛り込まれている。
「オタクの常識」があるから、私たちは時に驚き、時に違和感なく、あらゆる事態に対して理解ができるのだ。
つまり私たちは、「オタクカルチャーの系譜」を持っているのだ。

2.『純粋芸術』と『オタクカルチャー』は水と油

私たちには、時に『純粋芸術』に対してどうしてあんな高値で売られたり、
世界から「彼は素晴らしいアーティストだ」と、賞賛されるのかが理解できない。
私たちの中に、『純粋芸術』に対する教養が足りないからである。

同時に、世界中の人々は(オタクに興味のない日本人も含めて)
オタクカルチャーの世界で起きた出来事や商品のメガヒットがした訳を理解できない。
オタク作品はオタク教養のある者にしか、理解も評価もできないからである。

そして『純粋芸術』は、資産家などセレブが育み、『オタク文化』は、日本人の一部の大衆が独自に育んだ。
それも、本当に中流~下流に生きる大衆によって育まれた。

『純粋芸術』と『オタク文化』は、似たような発展構造や評価方法を持つが、
決定的にその発生源・支持者が異なる。水と油の関係なのだ。

だから、二章冒頭の中で引き合いにだした、
「村上隆はどうしてあんなに嫌われるのか?」という点を改めて考える。

私の中では、彼はスーパーフラットの提唱に代表されるように、
「オタク」「アニメ」など現在の日本で支持される大衆芸術に「日本画」の表現を用いて、
「日本の絵画とは何か?」という問いかけを作ったアーティストである。
欧米とは異なる独自のフィールドで育まれた、日本のアートを改めて見直し、
世界の『純粋芸術』に向けて再構築・最発信したのだ。

しかし、それを『オタクアート』と、安直に解釈してしまうことで、
『純粋芸術』と『オタク』の間で摩擦が起きるのだ。

『純粋芸術』の系譜は、容易にはオタクをアートとして認めないし、
『オタク文化』の系譜は、容易にはオタクカルチャーをアートの一つとして組み込まれ、
アートの尺度によって、さも知ったかのように評価されることがたまらなく嫌なのだろう。
トップダウンで生まれた芸術と、ボトムアップで生まれた芸術が、
今まさに激しく互いを拒絶しているのである。


アートとオタクの系譜

3■ ガレージキットはアートなのか?

さて、自分にとってどうしてもハッキリさせたいのは、
ガレージキットはアートなのかという疑問である。

ガレージキットは、文字通りであるが原型師の手によって造られた原型を
シリコン型にて複製することで造られる模型キットである。
金型と比べ、低コストである。しかし、型そのものに耐久性がないため、小ロットでの複製が前提となる。
よって、企業活動ではない個人販売の分野において重宝される。

また、原型師の活動に限定すれば、彼らの作業範疇は原型を造ることなので、
複製精度の善し悪しと、購入し組立て完成させた者の力量によって作品の質が大きく変わるという、
『時間芸術』の様な特徴がある。

よって、一つの傑作フィギュアを誕生させるには、
原型師・複製師・フィニッシャーの三者の技が揃わなければならない。

一つの作品に多様な職人が携わるという点においては、
絵師・掘り師・刷り師と分業制であった浮世絵に近い創作体制である。

支持母体となるオタクへの配慮という点では、ガレージキットはアニメやゲームに登場する
キャラクターを立体化しなければならない。オリジナルにも魅力はあるが、
支持者がガレージキットに求めるのものは、あくまで立体化されたキャラクターなのである。
それは、ガレージキットの発展が「オタクの系譜」の一部であるということからも説明できる。

従って、ガレージキットという存在は、版権という水槽の中でしか生きられない熱帯魚のようなものである。
版権元が許諾するアレンジの中で最大限の美を求めていかなければならない。
その活動制限は、五・七・五の原則や季語の使用を求める俳句に近い存在だ。

美の追求・奇の追求・萌えの追求…など、オタクカルチャーにおいて、
ガレージキットの持つ使命は極めてアートな使命である。
しかし、それはオタクカルチャーの世界においてしかまだ通用しないアートであり、
現代の版権ビジネスの様式に則った、守るべきルールの多いアートである。

さぁ、ガレージキットが、如いては、オタクカルチャーはこれからどのように進化していくのだろうか。
最後に、今後の展望を考察していく。

プライマリーとセカンダリーの関係図

ガレージキットのプライマリーとセカンダリー


4■ ガレージキットがアートになるために

『大衆芸術』という観点から見ると、ガレージキットは多くの企業に注目されるようになった。
ガレージキットが生まれる以前、総合玩具メーカにとって有力事業一つでしかなかった
模型やフィギュアであるが、現在は、模型・フィギュアの専門のメーカーが誕生し、
オタク層のニーズに応えた商品をほぼ彩色済み完成品仕様として多種大量に扱うようになった。
ガレージキットの歴史は既に、彩色済み完成品フィギュアの歴史に取って代わりつつある。

映画業界には様々な国際映画祭があり賞がある。
音楽業界にも国際的権威を持った音楽祭があり、各音楽のジャンルに合わせた賞がある。
完成品フィギュアの業界においても、世界的権威を持って作品が評価されるフィギュアの祭典が
誕生するかもしれない。

日本企業が発端人となるかもしれなし、海外のフィギュア業界との交流の中で生まれるかもしれないが、
『大衆芸術』の手法で作品を評価する未来の到来が一つ考えられるだろう。

ただし、これは企業活動としてのフィギュアにスポットを当てた権威である。
個人が制作するガレージキットではなく、メーカー主導の元、『大衆芸術』の系譜の中に
フィギュアが組込まれるという未来だ。


『応用芸術』の観点から見ると、ガレージキットは平穏である。
『アートは応用芸術である』として、オタクによって独自に愛でられ、オタクと共に栄枯していくことだろう。
現在における「ガレージキットとはアートなのか?」という答えに一番即している。

しかし、私たちはいつまでオタクカルチャーという鎖国に甘んじていて良いのだろうか?
企業による、大量生産されたフィギュアは確かに今、技術も良く美しい。
だが、「フィギュアのことをもっと知ろう!」「私も原型師になろう!」など、
熱い想いを持った、若者はメーカーの台頭によって等しく増えているのだろうか?

オタクビジネスはオタクカルチャーの基礎の上に成り立つビジネスである。
『大衆芸術』として飲み込まれて、企業と顧客という関係でしかオタクのポジションを
語れなくなったら、それはオタクカルチャーそのものの終焉である。

また、『純粋芸術』の世界からもただ特異な存在としてのみ、
ガレージキットを傍観することだろう。そもそも目もくれないかもしれない。
オタクは「俺達の世界に入ってくるな!」と、威嚇し、世界は「勝手にどうぞ。」と流す。
私が愛するガレージキットは、未来永劫日本人の自己満足で終わってしまうのだ。
それはどこか悲しい。


『純粋芸術』の観点から見ると、ガレージキットは戦わなければいけない。
私たちが『純粋芸術』は何たるかを学び、『純粋芸術』のコレクターの物欲に訴えかける
手間、サイズ、素材、技術を把握し惜しみなく提供しなければならない。
それも、『純粋芸術』の系譜の中にオタクの系譜を混じえなければいけない。
ただ『純粋芸術』のルールに従っていれば、それはガレージキットでなく、彫像彫刻の類でしかないからだ。

非常に面倒な作業であるし、かつ、先ほど申し上げた通り、
『純粋芸術』と『オタクカルチャー』は水と油の世界である。
正直、無理なことなのかもしれない。
しかし、その努力がコレクターにもオタクにも認められた時、
私たちはトップダウンの芸術とボトムアップの芸術が融和した
新しい芸術の時代を垣間見ることができるのだ。


これは私の個人的な主義であるが、
コミケやワンフェスにおいて、消費者と生産者が同一化してアートを売買し、
机一枚隔てて闊達に作品を語りあう姿こそオタクカルチャーの核心であり、
それは、『純粋芸術』にも『応用芸術』にも『大衆芸術』にも属さない、
未来のアートだと考えている。『全員参加型芸術』である。

『全員参加型芸術』がどのような未来を造るかはわからない。
現在はオタク的なキャラクターを、CGで描いたり、キャラクターソングを創ったり、
私が愛好するガレージキットにしたりといった活動が関の山である。
しかし、日本人がオタクカルチャーに留まらずアートにも寄り目を向け、
積極的に解釈し、愛好し、オマージュに富んだ作品を造ることに傾倒するようになれば、
それは世界的にも美術の新時代を感じさせるアクションとなるのではないだろうか。

『純粋芸術』と『オタクカルチャー』互いの系譜を書き加えることはできなくても、
お互いを学び知ることで、両者を隔てる壁を打ち砕くことは可能なのである。

ガレージキットは、アートではない。
ガレージキットは、アートになるのだ。


最後までお読み下さり、誠にありがとうございます。


参考:村上隆の芸術実践論(ニコニコ動画)、
ガレージキットの歴史、
(http://www.ne.jp/asahi/paopao/wonderland/text/godzgkit.html)
ウィキペティア


適当な文章で信憑性に欠けるため、原稿の転用は原則禁止と致します。




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コメント

反論とかじゃなく、自分の考えをちょっと書いてみる。
キリスト教文明圏のアートは宗教と科学と権力の象徴であり、極めて長い伝統と方法論を持って独自の進化をしてきた。彼らにとってそれこそが神に認められ、神を表現できる唯一の美だった。
ところが19世紀、極東の島国から輸入した焼き物を包んでいた紙くずに彼らは激しい一撃を喰らってしまった。日本人が梱包剤として、ゴミとして西洋に送り込んだ浮世絵を代表とする「ジャポニズム」は西洋アートの伝統と潮流をひん曲げる程の衝撃を持った毒だった。自分たちが突き詰めた美術の方法論とは全く異質。神の教えに反する悪魔の芸術に、彼らは不覚にも見たことの無い美を見つけてしまったのだ。それは伝統と格式に縛られ鬱屈していた彼らのアートを犯す強烈な麻薬だった。
彼らにとって「オタクアート」は西洋の美術的伝統の流れから全く外れた浮世絵に次ぐ凄まじい毒なのだ。自らの神に認められた美とは全く異質の美。それは究極の背徳なのだ。
その毒は彼らにしか効かない。なんせ僕らはその毒を昔から食いながら生きているからだ。何の変哲もない日常の食い物として。だから、西洋人がオタクアートに感じる評価は、それを単なる日常の物としか捕らえられない僕らには決して理解できなくて当然だ。西洋アートの方法論に取り込まれてしまったら、オタクアートは死んでしまう。西洋の神に従えば、そこから毒は消されてしまうのだから。

とかねw まあ、こんな風に考える奴もいるよー、って思ってくれ。

いつもお世話になっております。
しっかりご意見を頂けて本当に嬉しいです。

日本で評価されなかったものが、海外で評価されて見直されるという流れは、現在世界で活躍する日本人アーティストや研究者を見ていても全く変わらないですね。

日本には世界で通用する評価を発表できる機関が本当に乏しいです。それは、現在の日本の国際政治的な立場も関係するのだとは思いますが…。

オタクという世界は西洋コミックや風刺画のバックボーンを背景に日本の中で独自に進化したジャンルだと思います。

私のスタンスとしては、今の“オタクアート”とは違う方向性で、
オタクとアートは共通理解を示していけるものだと考えています。

おっしゃる通り、毒としての刺激があるからこそ価値があるものだと思います。では、誰かがいつかその毒を食べるのでしょうか?世界で初めて納豆やフグを食べてみたり、ブルーチーズを食べてみたりしたようなチャレンジングな評論家が今必要ですね。願わくば、そんな志ある人が世界に発信できる評論家として成長することを祈ります。

評価するされるという構造もアートとオタクは異なりますが、
仮にここではアートとして評論家が評価した場合の展望として
自分の意見を述べておきます。

コメントありがとうございます^^ノ

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Author:yuu
ガレージキットのイベントに出没しては写真を撮ってます。
取材は足で、直に聴く!をモットーにレポートを書きます。
まだ2010年のワンフェス冬が初イベント参加のピヨピヨですが
どうぞ宜しくお願い致します。 

ツイッターしてます。yuu_T556です。
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